(ヨブ記第18章)
「ヨブは未知なる神の都に向かって苦悩の密林と戦いながら前進している。これに対し、友人たちは既に先祖以来住み慣れた伝道の都に安住している。」と船水衛司氏が解説しておられるが、私も同意見だ。信仰はいつも具体的現実の場で神と一対一で向き合い、自分にとって未知の領域に分け入ることだ。人に教えられたことを鵜呑みにしてわかったつもりでいる信仰者が何と多いことだろう。尊敬する先達の祖述者もヨブの友人と同じだ。信仰は各人が自分で初めから歩いて体得する以外にない。祖述の繰り返しの中で真理もゆがむ。だからビルダデのように、「あなたのためだけに地は捨てられ岩が移されることがあるだろうか?!」と、恒久不変の理法が世界を支配している、といった誤解が生まれる。主イエスは言われた、「もしからし種一粒の信仰があるなら、この山に向かって、動き出して海の中に入れと言っても、その通りになる。」これが信仰だ。この祈りの現実を体験すべきである。