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5月 惠泉塾は“後世への最大遺物”! ~2005年ニュースレターより ~

 私たちはこの社会に遺産として何を残していくべきか、33歳の内村鑑三は考えた。そして、①金を貯めて世

に残す、②金を使って事業を興す、③思想を残して将来の変革を期す、と話を進めて、一番優れた遺物は誰にでも出来る④「勇ましい高尚なる生涯」ではないか、と語る。私は惠泉塾の立場から「勇ましい高尚なる生涯」とは何かについて考えてみたい。 《1 苦しみを通して天命に即する》  苦しみを避け、苦しみから逃げ出す人は多い。酒や麻薬で苦しみを忘れようとする人もいる。苦しみに客観性はない。ある人にとっては苦しくないことでも、別の人には耐え難い苦しみであることがある。だが、人生には無駄な苦しみはない。苦しむことで人は自分の心の偏り、こだわりに気づき、それを手放すことで苦しみから解放される。苦しみを通して要らざる誇り、身の程知らぬ野心を捨て、天与の境遇に満足する謙遜な人生に至れば、それこそ勇ましい高尚なる生涯だと私は思う。 《2 自分に死ぬと神が働く》  人は世間に認められたいと願って自分の評価を気にする。頑張って自分を輝かせる人生が称賛に値すると思っている。政界、財界、芸能界、スポーツ界、どこでも一番になろうと、みんなしのぎを削っている。週刊誌を見れば、そのための泥試合に札束が舞い、不正が包み隠され、複雑な情実がからむのだそうだ。人間が自分一人で出来る仕事は限られている。組織を動員しても、常識を越える仕事にはなるまい。ところが、神の仕事は質的にもスケールにおいても人間業をはるかに越える。もし、私たちが神の前に自分を投げ出し、イエスのように絶対服従するならば、神が私たちの人生を生きてくださる。そのとき、驚くべき“神の仕事”が始まる。それに携わる人生は勇ましい高尚なる生涯と言えるだろう。 《3 神を知る》  神を知ろうと志す人は少なくないが、知識を増しても霊的な体験を加えても、神を人間の理解の範囲に閉じ込めようとする試みは、すべて失敗する。神を知る、とは神との人格的な愛の交わりに入ることだ。頭の先や皮膚感覚やオカルト的な体験で知ったつもりでも、それは私たちが聖書を通して教えられている神ではない。私たちの神は、生きて働く人格神である。愛し合うことを通して神を知るとき、私たちは神に感動し、神を愛さずにおれなくなる。神を知ると、神の心を生きるようになる。神を喜ばせるためには、どんなことでもする。捨て身の人生を突っ走るようになる。それこそ、勇ましい高尚なる生涯である。  つまり、惠泉塾の活動に参加することは、勇ましい高尚なる生涯の実践であると言えるのではないだろうか。 (水谷惠信 2005年「ニュースレター波止場便り」第150号より)