狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通
じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。 (マタイによる福音書7:13、14) 札幌キリスト召団の信仰は、聖書通りのきわめてノーマルな福音である。しかし、他の教会ではなかなか語られない真理の全体が語られている。普通は真理の前半しか語られないことが多い。イエス・キリストの十字架により、罪から解放されて天国へ行ける、と。 自由にされてからが問題である。何をするのか? 何のために救われたのか? そもそも救いとは何か? どういう信仰を持ったら、本当に神に喜んでいただけるのか? それを知らねばならない。そのためには神のご計画、御目的を知らねばならない。そのために私たちは聖書の学びを深めるのである。 愛する者となるために救われる。救われて神の子とされ、愛する者とされる。欲望から完全に解放されて愛し合う世界づくりに参加する。そして、神のご計画を果たす人材になる。これが自由にされた者の歩むべき道である。そのために必要なものは信仰である。人生を完全にイエス・キリストに預けることである。信じることによって心の内にキリストが住んでくださる。内住の主として生きてくださる。すると、行くところどこへでもキリストはついて来られ、その人をしっかりと捉え、支え導いてくださる。イエスの時代、2000年前と同じ神が、その人を通して語り、多くの人の魂を捉えずにはおかない。 その際、キリストが我が内に生きて働いておられるという実感が大切であり、曖昧ではない。感覚的に捉えられないものではない。誰の目にもはっきりと分かる。「救い」はそんなに曖昧なものではない。敵対するものが互いに愛し合って一つとなること、それが神のご計画である。そして、救われた者だけが神の秘められた計画に貢献することができる。 札幌キリスト召団は、今も生きて働くまことの神を、召団員一人ひとりが全生活を通して証しする群れである。何よりも純粋であること、生活が丸ごと神中心であることが大切だ。神が私の人生に介入して何をしてくださったか、神が私を用いて何をしてくださったか、それを注意深く見分ける霊の目をもって、日々が証しであるような信仰生活の中で、霊的な礼拝を捧げる。そんな小さくても純粋な群れである。 狭き門より入り、天国に至る細く険しい道を行く群れであることが求められている。また、いかにそのことに強調点を置き、そこにこだわっているか、そのことを理解しなければならない。それが召団の独自性である。他の教会と目標にしているところが違う。しかし、聖書にはそれがちゃんと書いてある。ちゃんと書いていることを真に受けて、本気で信じる群れである。決して差し引いたり、割り引いたりはしない。 このような召団という教会の独自性をしっかりと刻みつけよう。一人ひとりが見神体験、聖霊体験を目指して激しく求道するという、そういう群れである。「己に死ぬ」は、召団員としてまずなすべきことである。「何かをする」よりもまず、「己に死ぬ」なのである。 (2013年 丹波セミナー 上級者コースのメッセージより)