余市惠泉塾の「若者の集い」で、一日研修旅行に札幌の「北海道開拓の村」へ出かけた。明治から昭和初期にか
けて建築された北海道各地の建造物を、54㌶の敷地に移転修復、再現した野外博物館である。その中には、開拓使時代の西洋建築や屯田兵屋など「北海道遺産」に該当する展示もあり、若者たちと開拓当事に思いを馳せる貴重なひとときとなった。今年の年間テーマである“開拓者魂”は、地元、明治の北海道に息づいていた。 明治2年、新政府は北海道に開拓使を置き、従来の蝦夷地を北海道と改めて大いに開拓を行う意欲を示した。黒田清隆は、明治3年、世界を一周して、日本の宝となるべき偉才を探すため、北アメリカに渡った。こうして、ケプロンを始めとする北海道開拓使に招聘された異邦人の数は75人に及び、内45人はアメリカ人であった。 ケプロンの要請によってクラークが札幌農学校に着任したのは、彼が満50歳の誕生日を迎えた明治9年7月31日であった。教育の高い理想と情熱が短い時間にこれほどみごとに開花した例は日本近代教育史上まれであるかもしれない。クラークの教育家としての資質と識見、未開の地札幌の学舎に選ばれてきた若い魂、原始の森を背景に火花を散らす人格的触れ合いの中から結んだ良き実、それが札幌農学校であり、日本の青春のふるさとを生んだ人、それがクラークであった。 クラークを生かした人は黒田清隆であり、黒田清隆は西郷隆盛の感化を受けた人である。西郷隆盛は、内村鑑三著『代表的日本人』に取り上げられた人物である。教育による感化力が、歴史を彩るような人物誕生の鍵を握っていると思わされるのは、やはり幕末から明治維新を経て近代日本が形成されていくプロセスにおいてであろう。しかし、今ほどこの国に感化力が必要とされている時代はないのではないか。 クラークは、生徒の徳育問題で黒田長官と激論を交わし、ついに聖書をテキストとするのが最も有効だとする考えを貫いた。彼の蒔いた信仰の種は、内村鑑三を通して、札幌キリスト召団にも及び、1877年の「イエスを信ずる者の誓約」ならぬ、イエスを信ずる者の共同体「惠泉塾」を1996年に生んだ。キリストがつけてくださる愛の実は、いつでも時空を超えて永遠性を帯びている。私たちは、聖書一巻を人生いかに生きるべきかの教科書とし、生けるキリストの感化力で若者の心を捕らえて日本の青春のふるさとをもう一度回復したいと願っている。 (参考:蝦名賢造『北方のパイオニア』、福島恒雄『教育の森で祈った人々』) 写真:北海道厚別区「北海道開拓の村」