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7月 聖書が語る死生観 ~ 召天者記念礼拝を前に ~

生と死についての考え方が、聖書の価値観とこの世の価値観ではまるっきり違う。  神には天地創造の前か

ら明確な一つのご計画があって“秘められた計画”とも呼ばれる。神はご自身のために目的を持って天地を造られ、人間を創造した。それは愛なる神の自己表現のためであり、その活躍舞台に登場する人間にも当然「互いに愛し合って一つとなる」ことを求められる。 この世は神の自己表現に満ち満ちている。たとえ聖書は読まずとも、天然自然の中に生きていると、そこに神を見る。大自然は神を刻印している。神の命が充満し、神の真理が散りばめられている。内村鑑三が「聖書」と「自然」の中に神を見いだしたように、真に自然を見るならば、そこに神を覚えずにはいられない。そういう存在として人間は造られている。私たちはみなこの神に生かされ、支えられ、神のために存在させられている、と聖書は繰り返し主張する。 神の前に存在し、反応して生きるのでなければ、本当の人生はまだ何ごとも始まっていない。私は何のために生きているのか、なぜ、生きなければならないのか、神の私に対する使命が分かり、それを引き受け、実践して初めて“生きる”と言う。そのようにして人生に目覚め、私の人生が意味のあるものに変えられていくとき、たとえ途中で肉体は滅ぶとも、その使命は次の人に引き継がれていく。バトンを手渡すとも、私という存在は終わらず、魂は神の前に生き続ける。 第一幕は肉体が朽ち果てるときに終わるが、それで終わりではない。そのあと永遠の命として信仰の友と御国で再会できることが、確かな実感として私に分かる。 瞬間の死を価値あるものにするかしないかは、その人の歩いて来た人生が決定する。その人生の重みは、余韻として死後いつまでも残る。いかに生きるべきか、どのように生きることを神に期待されているか、が大切であり、たとえ数ヶ月であっても人生に目覚め、神の前に生きた存在となることで、神を喜ばせることが出来る。人の目に見事に変貌した姿として映るのである。  創造主が造って良かったと思ってくださる人生を歩む人こそクリスチャンである。苦しい人生であっても、その人生の途上、救い主に出会い、神の前に生きた存在となり、精一杯走り抜いてバトンを手渡して逝かれた故人たち。一つ一つ価値ある人生として永遠に神の心の肉皮に刻まれ、終わりの日に名を呼んで喜んでくださるだろう。この人生をよく引き受けて歩いてこられましたね、と、私たちも主にある役割を演じきった役者たちに拍手を送りたい。       (2013年札幌キリスト召団 召天者記念礼拝メッセージより)