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12月 きよしこのよる 聖なる神と ~ 水谷幹夫先生の過酷な信仰レース ~

 きよさとは何か。聖とは何か。私たちは見かけの清潔さとか、汚れていない清楚な外観といったものをイメー

ジしがちだが、「聖」とは目に見えない神様の御性質のことである。フランシスコ会訳聖書の注解によると、「聖性の基本的概念は、普通一般のこと、あるいは世俗的なことからの隔絶であり、あらゆる創造されたものに対する神の超越を意味する。また、天にある万軍の主の聖性は、全地に満ちる主の『栄光』と相関関係を持つ」とある。  人間は神の似姿に造られているが、神に近い訳ではなくはるかに遠く隔たっている。そして、どんなに神が被造物と隔たっているか、信仰の道に進めば進むほど痛く知らされる。かくも隔たった神と人とが結び合わされて一つになるとは、何という驚くべきことだろう。  神のきよさにあずかるたった一つの道は私たちの主イエス・キリストに結ばれることである。キリストは大切なご自分の枝を切り落とし、私たちという貧弱な枝を接ぎ木してくだるために招いておられる。思い切って自分の幹から離れてキリストの幹に接ぎ木されると、キリストの幹から命が流れてくるという霊の法則によって、私たちはきよめられ、はじめて神の御性質にあずかることができる。御言葉を信じて掟や戒めを守ることによっていよいよキリストに固く結ばれ、神のきよさにあずかることができる。  肉体は弱い。霊は燃えて突き進んでも、肉体は歩みを共にできず、途中で脱落する。肉体は死によって任務を解かれる。長い間断なき孤独な戦いだった。私は我が肉体に、ご苦労様でした、ゆっくりお休みなさい、と言ってあげたい。私の主人の神様が、私にどんな評価を下されるか、少しも関心がない。私は精一杯を尽くしたから、これ以上を求められても出来なかっただろう。お前は地獄だと言われても受け入れる。それが実際の自分に相応しいと言おう。私の主人の神様の判断が正しい。私は精一杯を尽くしてこの人生を駆け抜けたことに満足するのみ。楽しいことも多かった。充実した人生だった。思い残すことはない。たとえ火と硫黄の池に投じられても、私はこの人生を導いてくださった自分の主人に感謝を捧げる。  これは、今年度も終りに近づいた最近の伝道旅行の途上、水谷幹夫先生より惠泉塾の留守部隊に送られて来た電子メールである。自ら、引退の体調に近づいたと仰る水谷先生にとっての過酷なこの信仰レース、間断なき孤独な戦いは、しかし、神の愛にしっかりと結ばれ、神の似姿へと化せられる一本のまっすぐなきよめの道ではないだろうか。  私たちの暗闇にまで身を低くして降りて来られ、自ら汚れることを厭わず、自分が滅んでも、たとえ人から蔑まれてもかまわずに探し出し、つかまえて助けてくださるという、そういう愛がこの世に存在するということ! 親の愛や友情や恋愛など比べものにならないきよい愛、まれな愛…、しかし、この愛は失われず、今も私たちの前に現れてくださる。イエス様が十字架で見せてくれた愛は今、水谷先生の肉体を通して現れてくださっている。しかし、霊の目を開いていただかなければ、この神の愛の存在を知ることはできない。聖なる方、神の愛を水谷先生の内に見ることができた人は幸いである。アーメン