新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革
袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。 (マタイによる福音書9:17) 今年の元旦礼拝、水谷先生のメッセージで教えられたのは、「新しいぶどう酒」は隣人愛を説くイエス様の新しい戒め、「古いぶどう酒」は律法を重んじるユダヤ教の古い戒めだということです。イエス様の新しい教えを古い革袋にそのまま入れようとすると、革袋を破って流れ出してしまいます。「新しいぶどう酒」には命があったからです。 「新しいぶどう酒」はまた、札幌キリスト召団の語る福音です。「互いに愛し合って一つとなる」という神の秘められた計画です。何と、それは、小池先生・水谷先生を通してこの群れだけに開示された神の奥義でした。しかし、従来の教会、従来の召団には戸惑いや混乱をもたらす教えとして警戒され、排斥されてもいます。しかし、命ある教えなのです。 では、「新しい革袋」とは何でしょう? それは愛し合う共同体だ、と先生は仰いました。つまり、私たちが愛し合う共同体を形づくって信仰を生活すれば、新しいイエスの教えである「隣人愛」が頭ではなく、体で分かり、根付く、というわけです。 「互いに愛し合って一つとなる」ことを賞揚する札幌キリスト召団の「新しいぶどう酒」は、惠泉塾という「新しい革袋」に入れて大切に育まれてきたおかげで、ぶどう酒も革袋も20年を越えて長持ちしています。惠泉塾で朝ごとに学ぶ聖書の言葉は、朝ごとに飲む新しいぶどう酒です。御霊に酔うが如く魂が鼓舞されます。これが私たちの活力源です。 生ける御言葉が語られる召団の福音は、「新しいぶどう酒」であるがゆえに「新しい革袋」として愛し合う共同体を必要としたのです。「隣人愛は惠泉塾のような愛し合う共同体の中で初めて芽吹き、花咲く」のだ、と先生は仰いました。 惠泉塾のような、愛し合って一つとなることを目指す「愛の砦」がもし、我が家に、我が職場に築かれるならどうでしょう。そのとき私たちは「新しいぶどう酒」を入れるに相応しい「新しい革袋」を手に入れます。即ち、「愛の砦」が「新しい革袋」なのです。 愛し合う共同生活の中でこそ、この群れに与えられた神の奥義は啓かれ、真理の扉が開かれるのです。真理は神の奥義として「新しい革袋」の中にあります。真理のバトンは共同生活実践の中で悔い砕かれた魂にこそ手渡されるのです。第二世代にこの真理のバトンを確実に手渡すために、全国に、全世界に、何枚もの「新しい革袋」が必要です。 大連にも、沖縄にも、丹波にも、都賀にも、ニューヨークにも、「新しい革袋」「愛の砦」が必要です。惠泉塾のような信仰に基づく共同生活、愛し合う家庭、愛し合う職場が…。 使徒の時代と変わることなく、今も生きて働き給う神様が与えてくださった恵みを、今年も精一杯、体で受け取る札幌キリスト召団員でありたいと願います。