(ヨハネによる福音書3:16~21)
1.神が知りたい
ニコデモは神の国が知りたくて、長い年月、聖書を調べ尽くして、探求してきました。彼は神の国を自分の目で見、実際にその中に身をおいて知るように、鮮 やかに知りたい、と願っていたのです。それは言い換えれば、神についての知識ではなく、神そのものを直接的に知りたい、という願いでした。彼は、我知ら ず、この信仰の核心に分け入って、行き詰まって、どうして良いか分からず、もがいていたのです。
しかし、神を体験的に知りたければ、外から観察し研究し知的に理解しようとするのではなく、神との“愛の関係”の中に我が身を投ずるほか、ありません。
2.神のご計画
イエスはニコデモをその愛の関係に招き、彼の魂に語りかけました。
「お前が神ご自身を求める以前に、初めに神の方がお前に目をとめ、お前を愛して名をお呼びになっていたのを、お前は知るまい。神は、お前を神の国の世継 ぎとするため、最愛の息子をお前たちの闇の世に派遣し、十字架上に死なせるほどの犠牲を払ってまで、お前を滅びの泥沼から救い出し、神の命に生かすご計画 を推進して来られたのだ。今や、その最終段階に来ている。お前は神のこの愛に、全身全霊をもって、応えてみないか。」
何という驚くべきことでしょう。私達が神を求める以前に、神の側から私達を求めていて下さったとは。しかも、私達はまだ捨て切れない多くの物を抱きかかえているのに、神は、最愛の息子さえ手放して、私達をもろ手で抱き締めようとして下さっているとは。
3.救いの方法
神の愛は偏り見ない愛です。私達の魅力や才能、業績などに全く関わりなく、一人の例外もなく愛して下さっています。だから、その愛に応える手段も、老人 にも幼児にも貧乏人にも金持ちにも知識人にも無知文盲の人にも誰にでも出来るやさしい方法を採用なさいました。それが“イエス”を“信じる”という方法で す。
信じる、とは信頼するということ、全的に身を任せるということです。翻って言えば、それは、自分を信頼しない、自分の経験や知識に対する信頼を捨て去る、ということもあります。それはまた、狭い門に身をかがめて入る謙遜な人になる、ということです。
積み上げたこの世の業績に執着し、自分の評価にこだわり、自分の心の闇を正面から見据える勇気がないニコデモにとって、これは、どんなにつらい挑戦だったでしょう。