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惠泉塾前史~出会いの宗教

排他的な宗教がある。神様なんていない、と信じていて、「いや私は神様に出会っていますヨ」と言ったら軽蔑の笑いで報いられた。また、真理はひとつだから、どの宗教も結局同じことを言っているのですヨ、と、いろんな宗教をつまみ食いして自分の気に入った部分だけ取り入れる、という人がいる。神様を知らないからそんな大それたことができるので、生ける人格神を切り裂いて一部のみ受け入れるなんて、出来ようはずもないことなのである。表面上、仁慈や愛を説くところが似ていても、深く辿ると根が違うことが分る。

また、一時期、教会に通い熱心に聖書を学んでも、いつしか風化して信仰に根づかない人がいる。頭で理解し、心情的に感動している間は根づかない。平安が奪い去られると、現実的な力にすがりついて、神を棄てる人である。

こうした人は皆、生ける人格神を知らない。頭で理解し、心情的に感動している間は観念信仰なのである。そこに生きた力はない。キリスト教は「出会い」の宗教である。アブラハムもモーセもサムエルも、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルも、12使徒もパウロも皆、神に出会った時、生きた信仰の力を賜ったのである。人は皆、復活のキリストに出会い、聖霊の降臨を身に受けるように、と神に求められている。創造主に向き合うことなくしては人生の真の意義も自己の使命もついに悟り得ないからである。