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5月 余市教会イースター2022を終えて ~余市惠泉塾 安間裕璃恵さんのレポートより~

2022年度の「余市教会イースター記念礼拝」は、「聖書どおりに」をテーマに2週にわたって行われた。イースター係の私たちは、例年の型を破る新しいチャレンジを、とみんなで話し合って構成を考え、水谷先生にご相談した。すると水谷先生は、「聖書の中で、『弟子の足を洗う』、『主の晩餐』、『十字架』、『復活』という一連の出来事の流れには、すべて“自己犠牲”が共通のテーマとしてある。礼拝に参加した人がそれを発見できると面白いよ」とアドバイスしてくださった。それをもとに、「賛美と御言葉を中心としたシンプルな礼拝を、実際の聖書のとおりにやってみよう!」ということになり、第1週目は「洗足」、「主の晩餐」、第2週目は「十字架」、「復活」と、2週に分けて実施されることになった。

 

第1週目、4月3日の聖日は、「洗足式」と「聖餐式」。

ヨハネによる福音書13章の聖書朗読に続き、水谷先生が「ひざまずく主人」というタイトルで洗足の意味についてメッセージしてくださった。それからたらいと手ぬぐいで実演する洗足式に入り、互いに足を洗い合った。

続く聖餐式は、水谷先生がみんなの横に立たれてパンを裂く通常の形態とは異なり、実際の主の晩餐でイエス様が弟子と共に食卓に着いたように、先生には中央に座っていただき、みんなと一緒のテーブルでパンを裂いてもらった。こうして、厳粛なる空気、かつ温かい雰囲気の中で洗足式と聖餐式は行われた。

【アンケートの感想から】

☆ イエス様が『腰にまとったてぬぐいで拭き始められた』と13章5節に書いてあるが、今回の洗足式でも、洗ってくださった方が、その方の持参した手拭いで拭いてくださった。そこから「仕える」ということを学んだ。

☆ 「洗足」、「最後の晩餐」、「十字架」、「復活」と続く今回のイースターのテーマを考えながら参加した。洗足式は初めてで、とても新鮮だった。「洗礼」は神様にしかできない清めの行為(儀式)だが、「洗足」は人間同士が愛し合って清められる(赦される)という行為(儀式)だと分かり、発見があった。

☆ 聖餐式が新鮮で厳粛さが感じられて良かった。

 

第2週目4月17日の聖日は、「十字架」と「復活」をテーマにした礼拝。

まず、十字架をテーマに、聖歌「おかにたてるあらけずりの」を全員で賛美し、イエス様が十字架にかかる場面のヨハネによる福音書19章17~30節を朗読した。

次に復活については、水谷先生が「霊的盲目からの解放」というタイトルで、エマオの途上とマグダラのマリアの場面からメッセージしてくださり、その後、復活をテーマにした合唱曲「いざたて戦人よ」を有志で合唱し、主を賛美した。

【アンケートの感想から】

☆復活を喜ぶには、霊的な目覚めが必要だと分かった。以前の教会で行われたイースター礼拝では、何を本当に喜ぶのか分からなかったので、祝うこと自体に違和感があった。「よみがえり」は神様にしかできない霊的な業であり、それをそのまま信じるには霊的目覚めが必要だ、と学んだ。

☆霊的目覚めの必要性を知った。私は目覚められるか不安だが、「愛し合う共同体に神が来てくださり、触れてくださるので、目覚めるきっかけが与えられる」という言葉が希望になった。

☆愛し合う共同体には神がおられ、触れてくださるきっかけが生まれる。みんながそのきっかけをつかむこと。目覚めさせるのは神様だが、神が働かれる場を生み出すのは愛し合う生活。私たちのなすべきはただ愛し合うことだ!と励ましをいただいた。

☆霊的目覚めのきっかけとなる共同体づくりが急務だと思う。

 

最後は、老若男女の有志による、讃美歌「いざたて戦人よ」の合唱で締めくくられた。イースターにこの合唱を起用したのは、「霊的な目覚めを求めて、ペンテコステに繋げよう」という思いに重ねて、「時がない今、水谷先生が最後の働きを終えようとしている今、次の世代が立ち上がらねばならない。第三世代立ち上がれ!」という意味をこめたかったからだ。

高校時代、合唱部だったという山守謙さんに指揮、リードをお願いし、毎週末の練習と、毎朝の大倉庫での朝練を重ねる中でだんだん熱を帯びてきた。しかし、一人ひとりがキリストの兵士の心を持つこと、一致した思いを持つことが難しかった。声になかなか迫力が出なかった。あるとき、竹花優子さんが歴代誌下20章の御言葉を見つけて、みんなで輪読してから合唱に臨んだら、突如みんなの空気が一致した。

 

「主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく神の戦いである。見よ、彼らはツィツの坂を上ってくる。そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。明日、敵に向かって出て行け。主が共にいる。』ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝した。レビ人のケハトの子孫とコラの子孫は立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。」(歴代誌下20:15~19、22よりの抜粋)

 

敵が攻めてくるイメージ、恐れおののき、途方に暮れるイスラエルの民、神に信頼して望みを置き、仲間を鼓舞するヨシャパト。そして、ただ神のみを礼拝・賛美したとき、神が敵を蹴散らした!という情景が鮮やかになった。この様子は、「私たちは霊的に目覚めなければならない。本気で、神のために死ぬとはどう体得したらいいのか、神に信頼して求めよう」という今の私たちに重なり、「この戦いは神の戦いである」という御言葉がみんなの胸に落ちて、迫力のある合唱になった。

けれども、これは私たちの戦いの始まりなのだと思う。水谷先生の味噌汁づくりが本気度の象徴行為であったように、イースターの合唱は私たち第三世代が立ち上がる象徴行為だ!と言えるようにしたかった。今回、イースター係としての活動を通して強く思わされたことである。ここまで導いてくださった神様に感謝します。

 

「いざ立て戦人よ 御旗に続け 雄々しく進みて 遅るな 徒(あだ)に

歌いて進めよ 歌声合わせて 潮のごとくに

正義の御神は我等の守り 我等の守り 我等の守り 正義の御神は我らの守り」