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惠泉塾前史~初老期痴呆症

1月30日付読売新聞夕刊に悲しい記事が載った。東京、板橋区で30日未明、初老期痴呆症になった妻の首を絞めて殺し、自分もマンションから飛び降り自殺した58才の保険外交員の事件だ。奥さんは53才。7~8年前から物忘れがひどくなり、夜間ひとりで歩き回る奇行が出、4年前から寝たきりとなり、最近では1歳児程度の知能しかなかった、という。この夫婦は実娘の夫婦と共に暮らし、彼と娘が交代で看病し、自宅の売却代金を治療費に充てていた。「いろいろ迷惑をかけた。」と生前も言い、遺書にも記しているところから、看病疲れと将来への不安というばかりでなく、若夫婦への気遣い、ということもあっただろう、と思う。実際、病人を抱えた二世帯四人暮らしの生活は大変だったろう。若夫婦は新婚当初から病人と同居し、解放される見通しがなかったのだから。そして、そのことで一層辛かったのは自殺したご主人でなかったと思う。死ぬことが彼の若夫婦に捧げ得る精一杯の思いやりだと、彼は考えたのではなかっただろうか。

これが人間の“やさしさ”の限界である。人の愛には義が伴わないことが多い。この事件に充分同情しつつも、人の命を自ら断ち、また奪うことで愛は全うされはしない、と叫ばねばならぬ。苦難を与え給うは神である。神は愛であって、全てのみわざには愛の目的を伴っている。それは達成されねばならぬ。もし彼が神に訴える術を知っていたら、全ての無用の不安から解放されただろう。この病人を誰より熱愛し給うは神である、と知って、神と共に看病に当たることを学んだら、どんなに多くの喜びを看病の中から与えられただろう。人が苦しむのは光を見失うからだが、若さや健康や財産は本当に当てにできる光なのか?たちまち失う危うい幻影の上に安心を築いていたのではなかったか?